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大寺村(近世) 江戸期~明治10年の村名伯耆【ほうき】国会見【あいみ】郡のうち日野川下流左岸の沖積地に位置し,南に越敷【こしき】山がある中央を出雲街道が通り,これに沿って五千石井手用水が流れる地名の由来はかつて地内に大寺院があったことにちなむ鳥取藩領村高は,拝領高755石余,「元禄郷村帳」917石余,「天保郷帳」942石余(うち新田高178石余),「元治郷村帳」975石余,「旧高旧領」1,045石余元禄の本免は3.7,「元治郷村帳」の物成は342石余戸口は,「伯耆志」75戸・305人,「文久3年組合帳」72戸当村は,日野川の東にあった清原村の村民が天文19年の洪水で流され移住して形成されたと伝えられる「伯耆志」によれば,隣村へは東の吉長村へ日野川を越えて3町,南の上野村へ30町,西の新庄村へ13町,北の水浜村へ日野川を経て13町,産物は鮎,また瓦を製造し,産土神は当村の上野大明神・三島大明神と馬場村の八幡宮で,上野大明神・三島大明神の祭日は9月11日,寺院には臨済宗少林山福樹寺があり,同寺は京都妙心寺の末寺で本尊は阿弥陀,古くは八幡村要玄寺の属坊と伝えられ,境内の東北には薬師堂の跡があるまた中世当地に寺領3,000石の万寿山安国寺の大伽藍があったが,永禄8年尾高城主杉原盛重が日野郡江尾城を攻めた時焼き払われ,同寺は後に米子に再建されたという明治4年鳥取県,同9年島根県に所属明治6年大寺小学校を開設,翌7年の教員数1,生徒数男16・女1(県史近代5)同10年殿河内村と合併し大殿村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大寺村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大寺村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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大寺村(近世) 江戸期~明治8年の村名... |
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大寺村(近世) 江戸期~明治8年の村名相模国足柄上郡のうち丹沢山地の南部に位置し,東を川音川が流れる東山家入七か村の1つ寛永10年・元禄10年・幕末とも小田原藩領村高は,「元禄郷帳」54石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに122石余検地は万治3年なお貞享3年朱印高は54石余(御引渡記録),元禄13年の村高覚では110石余(熊沢家文書)「新編相模」によれば,東西1里余・南北31町余,家数36軒,神社は当村の小名本村の鎮守山神社,寺院は古義真言宗大慈院「永代日記」に,明暦元年農民四郎右衛門兄弟が藩方に直目安を出し籠舎入りに処せられたことが見える寛延3年から小田原宿の助郷を勤める明治4年小田原県を経て足柄県に所属同8年寄【やどりき】村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大寺村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大寺村(近世) 江戸期の村名閉伊【へい】郡のうち猿ケ石川支流の早瀬川中流,物見山東麓に位置する盛岡藩領遠野通に属す寛永4年から遠野南部氏の知行地村高は,「邦内郷村志」8石余「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」「旧高旧領」に村名が見えず,「仮名付帳」には平倉村の枝村として見える寛永4年の遠野南部氏の当村における知行高は8石余(県史5)「邦内郷村志」では,家数10,うち寺田5・大寺5「本枝村付並位付」によれば,位付は下の下,家数11,集落別内訳は大寺8・寺田3明治2年あるいは同4年に平倉村の一部になったともいう... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大寺村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大寺村(近世) 江戸期~明治初年の村名上総国夷隅郡のうち落合川上流域に位置する江戸後期頃下布施村が当村ほか4か村に分村して成立「旧高旧領」では旗本阿部氏領村高は,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに235石余明治初年下布施村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」